光の射すほうへ【13】


  少女は陸上を始めた。幸いなことに少女には、長い距離を走っても疲れないだけのタフさが生まれながらに備わっていたようで、1km以上なら同い年の女の子は寄せ付けないほどに速く走れた。走ることが楽しく、同時に一緒に競い合うライバルというべき、これまでと違う種類の友人もできた。

 

 少女は、陸上を始めてすぐに頭角を現し、「学校の駅伝代表になれるぞ」と陸上部の顧問は彼女の肩を叩いた。練習はきつかったけれど辞めたいと思わなかった。走るのが楽しくて楽しくて仕方なかった。不思議だった。ピアノでは厳しい練習が辛くて辛くて仕方ないのに。

 

 しかし、秘密がばれるのはすぐのことだった。毎日トレーナーを汚して帰ってくる少女に母親が不審を抱いたからだ。

 

 母親は、まるで少女が世界を滅ぼす呪文を唱えたかのように嘆き、「あなたのために私がここまでしてあげているのにどうして分かってくれないのか」と何度も繰り返した。

 

 今までだったら、少女はこれで母親の命令に従って陸上を、走ることを捨てたはずだった。そうして、母親も少女が自分の所有物であることを再確認して、ピアノの前に座らせただろう。だが、今回だけは少女も譲らなかった。

 

「もう私にはピアノを続けて行く自信がない。何よりも、ようやく自分がやりたいことが見つけられた。どうか分かってほしい……」

 

 両者の話し合いは、平行線のまま交わることはなかった。

 

「ピアノを続けられないのなら私の娘じゃない。出て行け!」

 

 という母親から突き付けられた最後通牒を受けて、少女は泣きながら家を飛び出した。

 

 少女はもはや行くあてもないまま、とぼとぼと近くの国道沿いの歩道を歩いていた。家には帰りたくない。この先、母親と理解しあえる自信はなかったが、親という存在なしに、生きてはいけないことが分からないほど、少女は物を知らない子供ではなかった。だからと言って、母親に赦しを乞うことなどできなかった。自分が間違っていたなどと口にしたら、自分がピアノを弾くための人形だったのだと、自分自身で認めることになる。それだけは我慢できなかった。少女は、自分がするべきことは一つだ……と思った。

 

 恐怖は全く感じなかった。路肩の縁石の上に足をかけると、眼前に迫ってきた大型トラックの前に身を躍らせた。 飛び出した瞬間に少女は小さく笑ったが、その笑みの意味は本人にも分かっていなかった。ただ、これで楽になれると信じていた。

 

 ヘッドライトの激しい光があまりにまぶしく咄嗟に腕で光をさえぎった。ブレーキの音は少女の耳には届かなかった。あるいはブレーキがかからなったのかもしれない。いずれにせよ、トラックの車体は少女を避けることなく直撃した。

 

 直撃したのに不思議と痛みは感じなかった。足がふわりと道路から離れ、地球の引力から解放されたように思えた。頭上にあったはずの星の瞬きが今は自分の正面にあった。ほんの少し手を伸ばせば、届くんじゃないか……。

 

 自分は自由になれた……そう思えたのは一瞬だった。地球の引力は少女をとらえて離さなかった。黒光りするアスファルトが少女の目に写った。ほんの数秒前まで少女が立っていた場所に、数秒前まで立っていた自分自身の姿が見えた気がした。

 

「ねえ、あなたは何で笑ったの」

 

 少女が最後にそう呟いたことは誰も知らない。回答は得られないまま、背中から落下してそのまま意識が闇に吸い込まれていった。

 

*     *     *

 

 アカリは絵日記を両手で持ったままで、膝のあたりまで下ろした。もう一度、飾られていた鏡と、2枚の絵に目をやった。

 

 ここにきてようやく気付く。この2枚の絵は同じ人間を描いたものだ。そして、おそらく、この絵日記にでてくる少女と同じ人間。

 

 しかし、飾られている絵は、絵日記に少女よりも少し年上に思えた。この2枚は少女の未来を描いたものだったのだろうか? 1枚は陸上を。1枚はピアノを。それぞれ続けていたなら、あるいはありえたかもしれない未来。

 

 

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