過去に戻って【5(最終)】


 過去の私は、思ったように体が動かせないようだったが、怯えた目を私に向けて、「殺さないで……」と震えた声で懇願する。

 

 私には時間がないのだ。殺される理由もわからないまま死ぬのは不憫だろうが、懇切丁寧に教える余裕はない。それに、説明したところで、理解することも納得することもできないだろう。

 

 私はナイフを握りなおし、過去の私に跨ると、両腕を高く上げて振りかぶった。

 

 無言のままで振り下ろそうとした瞬間、右の脇腹に衝撃を受けて、文字通り私は吹き飛ばされた。

 

 同時にナイフも落ちる。

 

 とっさに、そちらのほうに目を向ける。

 

 誰かが立っている……。

 

 背が高かったので男かと一瞬思ったが、風にポニーテールに束ねた髪が揺れ、女だと気付いた。

 

 ジャージ姿の女が、私を睨み据え、ぎゅっと拳を握り締め、ファイティングポーズをとっていた。

 

「おとなしくしなさい! 警察を呼ぶわよ!」

 

 女が叫ぶのと私がナイフを拾おうと視線を走らせるのは、ほぼ同時だった。ナイフは、かなり遠方に転がっていた。

 

 それでも私は、何とかナイフを拾おうと手を伸ばした。

 

 ところが次の瞬間、私の目の前から、ふっとナイフが消失してしまった。それと同時に、私の体も、ピリピリとした痛みが全身を襲ってきた。

 

 時間の復元が始まったのだ。

 

 これ以上、ここに――この時間の中にとどまることは許されない。これまでに何度か、規模の小さい物質を過去に送り込んで確かめてきたことである。

 

「……」

 

 目的を達することはできない。このままでは、消滅してしまう。目的を達成してから消えてしまうのなら、それもまた良し、だが、そうでないのなら、これ以上この場に留まる理由はなくなる。

 

 私はさらに痛みを増してきた体を抱えて立ち上がった。

 

 そして、まだ腰を抜かしたままの若かりし日の私に目を向けると、背を向けて駆け出した。

 

 女は追いかけてこなかった……。

 

*   *   *

 

 大丈夫ですか……?

 

 耳に届いた声を、声と認識することができなかった。今、目の前で起こった出来事に、頭がついていかなかった。何を考えるでもなく、顔を上げる。まるで、遠い世界で起きている出来事のようだ。

 

 それでも、少しずつ現実を認識する能力が回復してきた。

 

 日課にしてる夜の散歩の途中だったこと。そこで、突然暴漢に襲われたこと。そして――。

 

 ようやく、自分が誰かに助けられたことに思い至った。

 

「立てますか? 救急車を呼びますか?」

 

 今度は、はっきりと聞こえた。女性の声だった。それも、なんだか聞き覚えがあるような声。

 

「だ、大丈夫です」

 

 私は慌てて答える。

 

 私の前に手が差し出された。女性らしい細い指だった。その手にも、確かに見覚えがあった。

 

「……そうですか。……あら?」

 

 顔を上げた私と、見下ろす格好になっていた彼女と目が合った。それで、ようやく向こうも私に気付いたらしかった。

 

「まぁ。……えっと、お客さん?」

 

 彼女は、私の顔をまじまじと見て、間の抜けたようなことを言った。

 

 お店ではないし、該当者が多数過ぎるが、互いに名前も知らないのだから、それ以外に言いようがなかったようだ。

 

 私も苦笑し、「喫茶店の……」と言いながら彼女の手を握った。

 

 それをきっかけに、私たちはたまに足を運ぶ喫茶店の店長と客という関係から、より親しい関係となり、半年ほどの交際期間を経て、結婚することになった。

 

 あの夜の犯人は、結局捕まることはなく、あの夜の出来事は、いつの間にか私も妻も、不思議なくらいすっぽりと頭の中から消えていた……。

 

,《fin》

 

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