過去に戻って【3】


 私は、すでにシートベルトでカプセルの中に固定されていた。


 カプセルの扉はまだ開いたままだ。運転が始まるときは、上に開かれた扉が下がってくる。


 助手たちがせわしなく動くのを私は見ていた。


「……先生。お分かりだと思いますが、左手のスイッチが強制停止スイッチです。問題が発生したと思ったら、すぐにスイッチを押してください。くれぐれも、無理はなさいませんように」


 助手Aが私に最後の確認の言葉をかける。


 それを見ながら、私は彼らに申し訳ない気持ちを覚えていた。


 それは、過去へ行き、私自身を殺したいと思う理由が、研究者としての抑えきれない研究意欲からくるものなどではなく、もっと個人的なものだったからだ。それは、献身的に私に協力してくれている助手たちにも伝えることのできないものだった。


 ……私には、かつて妻がいた。


 私が30歳になる前に結婚した、2歳年下の美しい妻だった。学生時代から空手をやっていて3段だったという彼女は、背筋の伸びた、立ち居振る舞いが綺麗な、凛とした女性だった。


 無駄に身長だけは高かった私よりも少し背は低かったが、女性としては背の高いほうで、まるでモデルのようにすらっとした足をしていた。


 これは、配偶者としての贔屓目で言っているのでもないし、女気のない環境で生活していた悲しい研究者の過大評価などではない。当時の数少ない友人たちからも、冷やかされたり妬まれたりしたものだ。


 そんな彼女と最初に知り合ったのは近所の喫茶店だった。いきつけにしていた喫茶店を一人で切り盛りしていたのである。調理師の専門学校を卒業して東京で6年ほど修業を積んでから、地元に戻って喫茶店を始めたとい語っていた。大学の研究室と自宅の往復の生活を送っていた私にとっては、その往復以外で立ち寄る数少ない場所だったし、大学の外で言葉を交わす数少ない女性であった。


 互いの生活圏が意外に近いことを、雑談の中で知った。より親密になったきっかけがあったような気がするが不思議とよく思い出せない。


 そんなに大したことではなかったからなのだろうが、頭の中のその部分だけ霧でもかかって思い出せないような不思議な感覚は、結婚したころから、今に至るまで何十年ももっていた。


 それを妻に話したことがある。不思議なことに、「実は自分も同じだ」と言っていた。同じように、どうしても思い出せないのだと語った。


 そんなことはあったが、妻との生活は幸せそのものだった。


 私は、妻と結婚してから、社会的な名声を得る研究を成功させることができたし、結婚から2年後くらいに書いた文芸書が、下手なSF小説よりも面白いという不本意な評判を生んで、それから二十冊ほどの本を出版した。      

 
 本の印税だったり、特許だったり、科学雑誌への記事の原稿料だったり、それなりの収入があったおかげで、金銭面の苦労はさせなかったと思う。


 しかし、幸福そのものだった私に対して、果たして妻は幸せであっただろうか、と思う。
 否、不幸せだったはずだ。


 私は、研究の虫だったし、気になることがあるとそのことにだけ考えが没頭してしまう癖があった。つい徹夜してしまい、昼夜逆の生活を送ってしまうこともしょっちゅうだった。


 私は、家事も洗濯も、家のことは何もできなかった。結婚前は弁当屋の弁当と、コインランドリーで全てすましていた。できたことと言えば、浴槽を洗うことくらいである。初めて私の家に来た彼女は、私の家の調味料も何もない台所に唖然としたことをよく覚えている。


 それに、子供もできなかった。


 いや、彼女から見れば、私こそが手のかかる大きな子供だったのに違いない。家のことは全て彼女に押し付けていた。それなのに、テーブルの上にはいつでも何か温かい食べるものを用意してくれていた。寝食を忘れがちになってしまう私のためである。


 彼女に大きな負担をかけているとは、当時の私は考えもしていなかった。


 いや、私の目に、彼女は写っていたのだろうか。感謝すらしていなかったのではないだろうか。それが当たり前のように思っていたのではないか。


 いつでも、彼女は私に尽くしてくれていた。それを、当然のように甘受して疑いもしていなかった。

 

 

 

 

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