ニセモノ【1】


 

 亜米利加(アメリカ)から日本に開国を迫るべく、ペリー提督が率いる4隻の黒船が浦賀沖に出現したのは嘉永6年(1853年)のことであった。

 

 長年鎖国政策を敷き一部を除いて外国との交易をしてこなかった江戸幕府は、ペリーの一戦交えることも辞さずという砲艦外交の前になすすべもなく、開国へと向かっていく。

 

 しかし、外国人嫌いで知られた当時の孝明天皇は開国を断固拒否。そのため、国内は大混乱に陥った。この国の主権は誰にあるのかという根本が問われたのである。幕府側を支持すべきとする佐幕派、朝廷側を支持すべきいう尊王派、外国勢力を断固追い払うべしという攘夷派、今戦ってもとても敵わないのだから今は開国して力を蓄えようという消極的な開国派、国を開き外国と交易を推進していくべしという積極的な開国派。個人レベル、藩レベルでの様々な思惑が入り乱れる中、江戸幕府はこの事態を収拾する有効な手が打てず、幕府の威信は揺らいでいった。

 

 ――が、その辺りの話は、他の良書に譲るとしよう。

 

*   *   *

 

 黒船来航から8年が経った文久二年(1862年)も、残すところあと一月余りというこの頃はまだ、混乱に陥り、日々流血の惨事が絶えなかったのは、京だけでの話。遠く離れた江戸の人たちは、まだまだ泰平の世が続くと思っていたし、そのうち何とかなるだろうと思っていた。

 

 しかし、そうは考えない者も、大勢いる。

 

 まだ昼になるのはやや早い頃――所用の為に朝から留守にしていた芝愛宕下日影町(しばあたごしたひかげちょう)に店舗を構ている相模屋伊助(さがみやいすけ)が店に戻ってきたところ、番頭から来客の旨を伝えられた。

 

「練兵館からの紹介がありましたので。名前は天然理心流の近藤様とか。一応奥の座敷に通してありますが、見た感じ田舎侍といった感じでしたな」

 

 50歳にはまだ手が届かないくらい番頭は、手早く来客の印象を伊助に伝え、それを聞いた伊助は、またいつもの手合いか、とまずは思った。この混乱を千載一遇の機会ととらえ一旗揚げようとする者も多くおり、新たに刀を買い求める客も多かったので、刀剣商は大賑わいになっていたのだった。しかし、訪れるのは商人の伊助から見ても下らぬと思うような輩ばかり。仕事とはいえ、少々うんざりしていたのである。

 

 とはいえ神道無念流練兵館といえば、今や隆盛を極める江戸三大道場の1つでもあるため、その紹介とあれば無下に扱うわけにもいかないのだった。

 なに、相手がつまらない手合いだったら、無銘の刀を適当な値で売ってやればよい……そんな罰当たりなことをに考えていたのだった。

 

 その男に会うまでは――。

 

 近藤という男が通された座敷へと入り、「不作法をいたしまして」と不在だったことを詫びて、正面に座布団を敷いて座った。一つ平伏した伊助に対して近藤は、

 

「こちらこそ、突然にまかり越したる無礼。どうぞご容赦いただきたい」

 

 と、謝辞と一礼を返した。

 

 そんなやり取りをしながらも伊助は近藤という男を素早く上から下へと視線を走らせ、悪い言葉を使うと値踏みした。

 

 確かに、番頭の言う通り、日に焼けた厳つい顔や身なりを見ると、雰囲気はまさしく田舎の郷士のそれだったが、正座してピンと張らせた背筋は一本筋が通っており、その肩幅はとても広く、毎日重い木刀で素振りをしている様子が目に浮かぶようであった。折り目正しい態度も好感のもてるものだったし、何よりもその顔つき、その眼光の鋭さは、なるほど、これこそ本物の侍のそれだと感じさせるものであった。

 

侍といっても、礼節をわきまえ、武の道に精進し、文の道も決して怠らない、本当の意味での侍はほんの一握りに過ぎないのが実態である。

 

 玉石混在という言葉があるが、大抵の場合は本当の意味での玉はほんのわずかで、ほとんど全てが石である。侍にしても同様で、大抵の侍は、家柄に胡坐をかいた侍、泰平に慣れてこの時代にどうしていいのか分からない侍、日々の生活にも困窮している侍、腕は立っても粗野で乱暴狼藉を働くしか能のない侍――ほとんどが石ばかりというのが伊助の率直な印象であった。

 

 

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