「症状を聞く限り、急性心不全の可能性があります。その時は、仰向けにするのは却ってよくないんですよ」
車掌は言いながら、腕に力を入れた。沢見もそれにならって、力を込める。
2人で力を合わせて、男性を座席に座らせた。
男性の手に触れると、体温がどんどんと失われているのに気がついた。
「とにかく温かくして……」
車掌は呟くと、立ち上がって、車両で様子をうかがっている人たちに、「体を温めないといけません。タオルなど、ございましたら供出願います」と、あくまでも丁寧に、しかし切迫した様子が伝わるような大声で、声をかけた。
それを聞いた乗客は、急ぎ荷物の中を探し始めた。
車掌と、沢見が上着を脱いで、男性にかける。
「……毛布があったかも。その前に、次の駅に救急車を手配しておかなければ……」
車掌は立ち上がり、
「出来れば、付いていてあげていただけませんか?」
と沢見に言った。沢見はこの時初めて、面長の車掌の顔を正面から見た。自分と同じくらいの歳だろうか。それなりに、緊張しているはずだが、その表情はあくまでも柔和で、冷静な男のそれだった。
沢見は、小さく頷いて、車掌の言葉に応じた。
車掌は駆け足で、2両目に駆けこんでいった。
ふと、座席に座った男性の顔を覗き込んだ。彼の額にも、数字が浮かんでいる。無我夢中で今まで、全く気付かなかったが、その数字は“56”だった。
* * *
沢見は、自分が今まで座っていた座席に座ると、ふうと息をついた。乗り込む人間も、降りる人間もいない、田舎のひっそりとした無人駅だ。男性を救急隊員に引き渡し、列車は、男性と奥さんを下ろして、何事もなかったかのように走りだした。
結論を言えば、あの男性は助からなかった。
呼吸が止まったのは、次の駅にもうすぐ到着するという頃だった。
車掌が急ぎ救命措置を施したものの、心肺停止のままで、救急隊員に引き渡された。列車は、重病の患者と、その夫人を下ろして、定刻を10分間ほど遅れて、発車した。
沢見が気にかかったのは、患者のことだった。
あの中年男性の額に写っていた番号が、症状が悪化するにつれて、だんだんと薄くなっていき、やがて消えてしまったのだ。それは、30年以上生きてきた沢見が、初めて見た光景だった。
しかし、番号がない人間をテレビなど以外で見たことは2回ほどあった。母方の祖母が亡くなった時と、父方の叔父が亡くなった時だ。
両名の遺体と対面した時も、あの番号はなかった。ということは、あの番号は死ねば消えてしまうということになる。
そしてもう1つ、気になることが……。
中年男性の夫人は、彼の年齢を56歳だと言った。そして、彼の額に写った番号も同じ56である。
沢見は、自分の胸の中に、非常に恐ろしい考えが浮かんできたのに気づいた。
これは、本当にただの偶然だろうか……?
その時、列車がトンネルに入った。真っ暗なトンネルの中を、列車が駆け抜けていく音が、車両の中にも不気味に響いた。そして、窓ガラスには、鏡に写したようにくっきりと、疲れた30代半ば男の表情が映し出されていた。その額に浮き出た数字は“36”。
トンネルを抜け出すと、再び窓ガラスが雨粒で覆われた。先ほどまでよりも、少し雨の勢いは衰えたようにも感じるが、それでも土砂降りに違いはない。
「切符の拝見をいたします。ご協力をお願いします」
車両に響く、きびきびした声が響いたのは、トンネルを抜けた直後だった。さっきの車掌が、切符の点検を宣言すると、1人ずつ乗客に声をかける。
「先ほどは助かりました。どうもありがとうございました」
沢見のところに回ってきた車掌が、そう声をかけてきた。
「いえ……結局、助からなかったですし」
「それは、結果ですよ」
沢見は車掌から切符を受け取ると胸ポケットに入れた。車掌の口調は慰めが含まれているように感じたが、それは車掌が自分自身に言っているのではないかと、沢見は思った。
次に進もうとした車掌を、沢見が呼び止めた。
「つかぬことを伺いますが……あなたは、38歳ですか?」
「ええ……」
車掌は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐににっこり笑って、
「でも、あと3日で、39歳になるんですよ」
▼あなたのクリックが創作の励みになります。▼