あれは、初夏の夜でございました。いつものように仕事を終えた善吉さんと、吉太と夕餉の膳を囲んでいた時のことです。
いきなり表がざわめいたかと思うと、数名の侍が斬り込んできたのでございます。顔は、隠しておりましたので、はっきりと分かりません。しかし、金目当ての浪人者の襲撃とは思えませんでした。刀を抜いた侍は、一刀のもとに善吉さんを斬り伏せると、返す刀でわたくしも額を斬りつけられたのでございます。それは、痛いというより、熱いといった感触でございました。
善吉さんは倒れて動かなくなり、わたくしも突然のことに呆然としておりますと、侍たちは吉太を抱え上げると走って去っていきました。わたくしは幸いにも軽症でございましたので、侍たちを走って追いかけ、七里様の御屋敷に駆け込むのを見届けたのでございます。
一度は奉公していた家のことでございます。わたくしは、こっそりと忍び込み、吉太を探し回り、ようやく吉太を見つけたのでございます。吉太はわたくしを指差し、「かあさまがおられます」と云いました。しかし、吉太を連れ出すことは適わなかったのでございます。
ああ、わたくしとしたことが、どうして吉太と寅丸様を勘違いして覚えていたのでしょう。
いえ、そもそも、寅丸様とは一体誰のことでございましょう。わたくしが知る限り、秀方様と奥方様の間に子供はいなかったはずでございます。
わたくしは、目の前に鎮座している、わたくしが知っているより少し成長した吉太――いえ、寅丸様を見つめ、それからお武家さまに懇願申しました。
「お武家さま。どうか後生でございますので、寅丸様の左の肩を見せて下さいまし。吉太の左の肩には、花の模様のような痣があるはずでございます。それが無ければ、その方が吉太ではなく寅丸様だと認めることができましょう」
「その必要はあるまい」
お武家さまの返事はそっけないものでございました。
「なぜなら、秀方と奥方の間には子はおらなんだ。この寅丸は養子じゃ。養子になった時には四歳だったと聞く。しかし、一体どこから引き取ったのか、秀方の近縁の者や家中の者に問いただしても、口をつぐむばかりで埒が明かぬ。しかし、元奉公人の子供をさらって養子にしたとなれば、それも合点がゆく」
そう答えるお武家さまに、わたくしは重ねて懇願いたします。
「ならば、どうか吉太を私の手にお返しくださいまし。それが叶わぬと云うのなら、せめて下働きで結構でございますので、我が子の成長を見守れるように、お側においていただけるようにご配慮くださいまし」
「その前に、おぬしに渡したいものがある」
と、お武家さまはわたくしの前に桐で作られたような、両掌に余る程度の大きさの白い箱がわたくしの前に差し出されました。
わたくしは、箱を開けるようにお武家さまに促され、箱の蓋を開いて中を覗きました。そこにあったのは、丸い……鏡でございました。
わたくしは、その中に映った自分の顔に驚愕しました。私の額は割れて、吹き出した血が顔を赤く染めておりました。さらに、わたくしの右肩から左の脇腹にかけても刀で斬られたように、白い着物に血の跡と思しき赤黒い線が入っていたのでございます。
なぜわたくしは血まみれになっているのでございましょう。
「死んだ時に、自分が死んだことに気付かなかった者は、死んだその時のままの姿で、彷徨《さまよ》い続けると云う……」
お隣の和尚様が、呟くようにおっしゃったのが聞こえました。
わたくしは、両手を顔に当てて、和尚様の言葉の意味を確かめようと、何度も何度も、その言葉を頭の中で繰り返しました。
それでは……。
それではまるで……。
わたくしが死人であるかのようではございませんか!
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