うつつよこそ夢まぼろし【3】


 奥方様は、普段は穏やかでお優しい御方でございましたが、少々癇癪《かんしゃく》の気がございまして、一旦火がつくと烈火のごとく怒り狂い、隣近所に聞こえるほどの大声で奇声を上げて奉公人であろうとご家中の方であろうと、さらには秀方様であろうと、怒鳴り散らすのでございます。奉公人たちは、奥方様の怒りを買わぬように細心の注意を払っておりましたが、そのきっかけは大抵取るに足らぬような些細なことで、一体、何がきっかけとなったのか分からぬことも多々ございました。その様は、気が触れたかと思えるほどで、今にして思えば、何かしら心の病を患っておられたのやもしれません。

 

 秀方様の女遊びは、息苦しい七里の御屋敷の中で、積もりに積もった鬱屈した感情を発散させる手段であったように、わたくしには思えるのでございます。

 

 ご隠居様は奥方様がお亡くなりになられる前年に鬼籍に入られており、奥方様がお亡くなりになられたと聞いたわたくしは、奥方様には申し訳ございませんが、むしろ秀方様も落ち着かれ御役目に腐心することができるようになりましょう、と亭主の善吉さんとも話していた次第でございます。

 

 わたくしは、目の前のお武家さまが、怪訝な目をしてわたくしを見ていることに気付きました。「なにかご不審の念がおありでしょうか」とわたくしが問いますと、

 

「おぬしは、先日、七里秀方の奥方が亡くなった時、“七里の御屋敷に奉公していた”と申したではないか。それなのに、亭主の善吉と“奥方が亡くなったときに話した”とはどういうことか」

 

 と、おっしゃいました。

 

 確かにその通りでございます。わたくしは、その話を“誰と”したのでございましょう。わたくしは、しばらく考えましたが、どうにも記憶が曖昧ではっきりとせず、

 

「おそらくは、奉公人の誰かとその話をしたのでございましょう。あるいは、善吉さんと話したのはずっと後のことで、それを奥方様がお亡くなりになられた直後のことと錯覚しているのやもしれません。いずれにしても、取るに足らないことでございましょう」

 

 と申しました。お武家さまは納得した様子ではございませんでしたが、「時に……」とすぐに話を変えられました。

 

「おぬしは、この少年に見覚えがあるか?」

 

 と、隣に座った子供の頭巾を外し、そのお顔を露わにしました。わたくしは、その顔を見て吃驚《びっくり》仰天いたしました。その顔は、わたくしの息子の吉太に他ならなかったからでございます。

 

「吉太! ああ、どうしてこのようなところに」

 

「咲どの。お間違えになられるな。この方は、七里秀方の倅、寅丸様であるぞ」

 

 お武家さまがそうおっしゃいますので、わたくしは改めてまじまじとその子供の顔を見つめます。そして、すぐにわたくしは笑いが止まらなくなりました。

 

「お武家さま。どうか、わたくしを担ごうとなさるのはおやめ下さい。いくらわたくしが不出来な母親とはいえ、自分の息子の顔を見間違えるなどあろうはずがございません」

 

 しかし、その場で笑っているのは、わたくしだけで、お武家さまはもちろん、わたくしの隣にお座りになられた和尚様もにこりともせず、吉太に至っては怯えたような顔でわたくしを見ているのでございます。

 

 和尚様のわたくしを見る目に憐憫《れんびん》の情が含まれているような気がするのは、気のせいでございましょうか。

 

「よくよく思い出されるが良い。咲どのの息子の吉太どのは今、おいくつであったか。吉太どのとの最後の思い出はいつで、どのようなものであったのか」

 

 和尚様が助け船を出すようにおっしゃいました。わたくしは、混乱し始めた記憶の糸を手繰り、吉太との思い出を思い出そうとしました。

 

 そうでございます。

 

 吉太は、まだ四歳でございました。七里の御屋敷からお暇を出されたわたくしは、長屋を借りて、善吉さんと夫婦になって暮らすようになりました。やがて、一粒種の吉太が生まれ、決して裕福ではないながらも、日々食べて行くには困らない程度の慎ましいながらも幸せな生活を送っていたのでございます。

 

 そう……あの夜までは……。

 

 

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