うつつよこそ夢まぼろし【1】


 わたくしの後ろから、仏様が見下ろしておいでになられます。私がおります仏堂の中は静まり返っており、ちりちりと行灯の油が燃える微かな音が、異様に大きく響いて聞こえました。この中にはお香が焚かれ、煙で前がはっきり見えないほどで、充満したツンとした刺激臭が鼻をつきます。

 

 外では秋の虫たちが楽しく歌っているはずでございますが、仏堂の中にはその歌はほとんど聞こえてまいりませんでした。

 

 わたくしは、板敷きの床に座布団を敷いた上に、正座して座っておりました。正面にはお武家さまが同じように敷かれた座布団の上で胡坐をかいておりました。そのお召物から、ご浪人様というわけではなさそうでした。

 

 もう一人、このお仏堂の中におられるのは、わたくしの横に座っている袈裟を纏ったお坊様でした。直感ではございますが、とても徳の高い和尚様という印象を受けました。

 

「住職どの。ご協力感謝いたしますぞ」

 

 と、お武家さまが和尚様に向けて恭しく一礼なされました。和尚様もお武家さまに礼をお返しになられた後、わたくしに向きなおされました。

 

「あなたは、咲《さき》どのでよろしいかな」

 

「はい」

 

「あなたは、七里秀方《しちりひでかた》という武士を知っておられるか?」

 

 と、今度はお武家さまが問われました。わたくしはこちらの問いにも、「はい」と小さく頷きながら答えました。

 

「わたくしは、七里様の御屋敷で年季奉公をしておりましたので」

 

 わたくしは商家の三女として生まれました。一通りの教育を受けた後に、大身旗本の七里様の御屋敷へと奉公に上がったのでございます。七里のお家は三河以来の名門でございます。秀方様のお父上で今はご隠居されておられます秀武《ひでたけ》様は、勘定奉行にまでなられた御方で、秀方様も将来を嘱望されておられた俊英だったのでございます。

 

 あの事件が起こるまでは……。

 

「あの事件……。そう、拙者はあの事件について知りたいのじゃ。わが剣友、七里秀方は、三年間もの間病床に伏せっておる。きっかけは、奥方の死であろうが、その頃に、不穏な噂を耳にしておる。しかし、誰に聞いても、口をつぐんで、噂の真偽を答えてはくれんのだ」

 

「わたくしも、そのことに関しましては口外することを固く、固く禁じられております。どうか、ご容赦くださいませ」

 

「そこを何とか。伏して頼み申す。親友が苦しんでいるのに、何もしてやれぬ自分が悔しいのじゃ。絶対、お主に聞いたなどと口外はせぬ。どうか、教えてくれぬか」

 

「そこまで、おっしゃいますならば……。しかし、どうか、口外無用に願います」

 

 わたくしは、そう云いながら、あの日のことを思い出そうと致しました。お武家さまがおっしゃいました通り、三年前の初夏の日に、奥方様は急に立ちくらみを起こされ倒れられ、そのまま息を引き取ったのでございます。医者にも原因が分からぬと、そう云われたとのことでございます。

 

「奥方様が亡くなられ、秀方様は意気消沈しておられましたが、一人息子で当時四歳になられたばかりの寅丸様のためにも、早く立ち直らねばとお考えのようでございました。

 

 奥方様が亡くなってから、二週間ほどたったある夜、寅丸様がわたくしを指さし、「かあさまがおられます」と云い出したのです。わたくしは振り返りましたが、そこには誰もいようはずがなく、お屋敷の廊下が続いているばかりでございます。

 

 わたくしは寅丸様に、「ここには誰もおりませんよ」というのですが、寅丸様は同じことを繰り返すばかりでございました。しかし、母親の幽霊が出て来たら、子供でしたら喜ぶと思うのですが、寅丸様はとても怯えておられました。わたくしが怯えている理由を尋ねると、「かあさまの額が割れて、全身が血まみれなのです」と、まだ言葉をろくに知らない虎丸さまが、一生懸命言葉を捜しながらたどたどしい口調で答えられました。わたくしも、それを想像して背筋が冷える思いがいたしましたが、わたくしには見えませんでしたので、どうにもしようがございません。それにしても、寅丸様のおっしゃっていたことが真実でございましたならば、奥方様はいかな宿業を背負っておいでだったのでございましょう。

 

 その後も、寅丸様は「かあさまがここにおりまする」と何度も繰り返し申されるようになり、家中の者たちもあしらいに困るようになっておりましたが、今度は奉公人たちからも「血まみれの女を見た」「女が壁の中に消えて行くのを見た」などという声が上がり始めました。

 

 

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